住職ブログ

三野正博先生

2020年7月17日

先日講演下さいました三野先生に御執筆を寄稿下さいました。
転載させていただきます。

「戦没者遺児と空襲罹災者のお願い」(欠席された方々へ)
 私は、2016年、私達が1984年から4年近く住み、二人の息子が高松中学を卒業しました地縁がある高輪で、素晴らしい住職がおられ本堂も新しく充実している正源寺の檀家にしていただきました。
そして、住職さんの依頼で、2017年3月に新門徒として「人生を振り返って 人間万事
塞翁が馬」と題してスピーチをさせていただきましたが、今回は戦没者追悼法要」ということで、戦没者遺児として、異例の2度目のお話をさせていただきました。
 スピーチのための配布資料は、数値が多く、項目のみのものもありますので一部補足させていただきます。

1 まず、私は父が戦死し、ふるさと高松の空襲で父母の実家を失いました。
(1)両親は、高松市出身で、1934年結婚し神戸に住んでいましたが、36年召集で満州派遣されました。陸軍で飛行機の整備担当で満州を転々としたようです。
私は、38年満州で生まれ生活していましたが、44年父がフランス領インドシナのサイゴン今のホーチミン市に転勤になり、家族4人、母、姉、私はそして生後2ケ月の妹は香川県高松市に帰りました。
高松に着く前に父が戦死して母子家庭になり、母の実家で過ごしていましたが、さらに45年7月4日早朝アメリカB29の空襲にあい、焼夷弾がふり、住宅が焼ける中祖父に手をひかれ逃げましたが、途中や火傷をした人、すでに亡くなった人も目にしました。田の中で、近くで燃える家々を見ながら夜を明かしました。
翌日燃えていた所は最も被害の多いところで、私の人生で一番多くの死者の方を見た日となりました。
両親の実家が被災しましたので、香川県内を3年間4度転居、5回転校しながら、カボチャ、さつまいもの弦をたべるなど、とにかくひもじい生活でした。この時代は、母が3人の子供を養うべく苦労をした日々で、子供の私も、焼け跡でくず鉄やガラスを拾ったり、夕刊を売ったりしました。遠足に行けず屋根の修理をしていたこともありました。
母の苦労については、母が日本遺族会に投稿して入選しまし「母子草」に記されていますのでお拝読いただければ幸甚です。(ご希望に方は正源寺さんにお願いしてください。)

2 特に忘れてはならない「沖縄戦」と「東京大空襲」、もちろん広島と長崎の原爆 
太平洋戦争は、最初は日本軍の兵力が優位でしたが、アメリカの軍事力が強まり、43年8月のガダルカナルの敗戦以来局面が変わり、特に44年サイパン島全滅後は制海権、制空権を失って厳しくなり多くの命と資産を失いました。
(1)沖縄戦 3頁
日本中で唯一市民が住むところで戦闘が行われたところです。
3ケ月の激戦で、沖縄本島の南半分は徹底的に破壊され、日本人が軍隊、民間人併せて約19万人、アメリカ人も12千人亡くなりました。
添付の太田少将の自決前の電報をご覧ください。「ひめゆりの塔」も。
私は、本土復帰前の70年に沖縄への特許法特に商標法の適用関連問題調査に行きました。佐藤首相が69年に72年本土復帰を決めていましたのでその前の調査です。その時現地の新聞で有識者が「本土復帰より独立」と発言さているのを見て、沖縄の長い薩摩藩の厳しい属国扱いはじめ本土の沖縄の人々への歴史的な冷たさを考えて、敗戦後の長い苦しいはずの占領統治から解放される喜びが少なかったのかと驚きました。現在も日米安保条約による アメリカ軍専用施設の約8割が沖縄にある現実を考えると、少なくとも負担の軽減の努力が望まれます。
KDDIの時代に沖縄で携帯電話事業に携わったときは、常に「償いの気持ち」を持っていました
  3頁の写真は、高松市遺族会が沖縄で「位牌持参手作り慰霊祭」を行った際に、第1回の慰霊祭で当時婦人部長・副会長であった母に続いて、親子2代で沖縄、中国本土、南の諸国・海で戦死された方々に追悼の言葉を述べた時のものです。
(2) 東京大空襲 5頁
  45年3月10日の東京大空襲は、死者9.5万人罹災者100万人の悲惨な空襲でした。
  アメリカ軍が日本人の「戦意を喪失されるために」それまでの軍需施設中心の空爆から
 方針を変え、「無差別にむしろ一般家屋、一般人を狙ったB29、300機による絨毯爆撃」でした。江東、隅田、台東区の両端から焼夷弾落としその後中心部に落とすという残虐なもので、完全に焼きつくされた写真を見ますと、今でも涙を禁じえません。
 「逃げるな火を消せ」という防空法の方針も亡くなられた人を多くしたと思われます。  
その後名古屋、大阪はじめ全国の主要都市に、この方針で爆撃しました。高松も同様でした。
空襲は、東京区部で60回、都全体では45年8月15日まで100回と言われています。

3 太平洋戦争の悲惨さと慰霊事業
(1) 戦争被害 6頁 
戦争被害を、ここでは、戦争相手国も含めて、失われた死者の数でとらえています。
関係される家族の数を想像しますと、悲しい気持ちになります。
記載しておりませんが、忘れてならないのは戦前、戦中、戦後復興するまでの苦しさです。
日本に限っても、徴兵.徴用、国家総動員法による物資統制・配給制、金属拠出、疎開等
防空法、治安維持法関連の思想統制・憲兵、そして隣組による圧力いろいろあり、豊かで
自由な現在では想像もできないことです。
戦後は、満洲、アジアなど海外にいた日本人の帰国の苦労、本土では、占領下でも徴兵
召集されることはなくなり、自由は一部取り戻されましたが、衣食住の絶対的不足と配給・統制、ただ生きることさえ大変でした。「掘立小屋」、「ひもじさ」「ぼろ服」などなどです。
戦争で両親を失った戦争孤児の苦労は書きえません。
とにかく戦争は悲惨です。
(2) 戦争相手国民の被害
日本は、日清戦争、日露戦争は勿論太平洋戦争でも中国本土で戦争をしました。
太平洋戦争では、アジア、太平洋諸島の各地にまで広がり、そこで空爆、艦砲射撃、陸上戦を行い、占領すると非占領国と事は考えつつも、治安維持のため敵協力者の摘発、資源の日本輸送、進駐し軍隊の食料の現地調達等を行い、さらに強制徴用もありました。
18頁に太平洋戦争での日本人の軍人軍属の多数の死者数が記されています。この中には、相手国人との戦闘行為で亡くなった方も多いのですが、戦争後半特に45年に入ってからは武器、食料、医薬品の不足に加えて、制海権。制空権を失い現地に届けられなくなり、戦闘行為ではなく食料不足・栄養失調、病気等で亡くなられた方も多くなっています。
   日本との戦争で占領中も含めて、相手国の軍人は勿論民間人の死者数も7頁の通り多く
痛ましいことです。(編集者は各国からの数字の多いものを掲載したと注記しています。)
   日本のこうした戦争行為については、戦後50年の終戦記念日に村山首相が16頁の通りの談話を発表し謝罪しています。
   私は、81年から84年までインドネシアのジェトロ・ジャカルタに勤務しました
インドネシアは、長くオランダの植民地でしたが、日本が石油その他の資源を得るべく太平洋戦争を起こしたともいわれている国で、宗主国オランダと戦い42年3月占領し終戦まで統治しました。占領時代には、他の国と同様スパイの摘発、石油等の日本への輸送、軍のために食料その他物資も調達しました。私の滞在時対日感情は良かったですが、
占領時代はインドネシア人にとっては不幸な時代で 犠牲者の家族もいました。また日本軍に強制徴用され、一部マレー、ビルマ等に連れていかれました。独立記念塔のインドネシアの歴史図の中に「厳しく働かされている人」が日本語「ROMUSYA」インドネシア語「ROMUSJA」として描かれていたことが印象的でした。
救いは、私からは言えませんでしたが、統治者今村中将がインドネシアを理解して治め、また将来連合軍と戦うことなどに備えて郷土防衛義勇軍また指導者として組織的に教育したインドネシア人が、8月15日以降インドネシアの独立とその後の統治に大きな役割を果たされたことです。独立戦争に使われたのは多くは日本軍の兵器であり、また終戦後残ってインドネシア軍の一員としてオランダと戦った人もいました。
(3) 慰霊事業及び慰霊施設
   現在 毎年国主催の全国戦没者追悼式はじめ各地で慰霊祭、追悼式など行われています。  
   私は、これらの慰霊事業に参加しましたが、その都度亡くなられた方々に追悼の誠を捧げますとともに平和の誓いを新たにしています。8-10頁ゆっくりご覧ください。
   これまで空襲で亡くなられた方々に対して、軍人軍属として亡くなられた方のような国からの経済的償いが行われていないことは考えさせられる問題の一つと思います。

4 お願い  12頁
  12頁でお願いいたしました通りです。
  誰も戦争を望みませんし、平和が続くことを願われていることと思います。
この希望を具体的のどうして実現するか。
今政府は、憲法の下自衛隊とアメリカとの安全保障条約をベースに対応しています。
少しばかり参考資料を付けていますので、皆様お考え下さいますようお願いいたします。
「良い戦争はない。悪い平和はない。」この言葉は、高松市の空襲犠牲者慰霊堂(六角堂の)
碑文に記された言葉で、若い時から信じていました。今回調べてこの言葉は
アメリアの独立宣言の起草者の一人ベンジャミン・フランクリンの言葉と知りました・
 この言葉が2世紀以上も前からありながら、戦争が起こされ平和が損なわれていることは悲しく、遺憾なことと思います。